2016年のリオデジャネイロオリンピック75kg級に出場、全日本選手権・選抜で優勝するなど華々しい経歴を持つ渡利璃穏さん。
一方で、過酷な増量をしたり、オリンピック直前で病気が見つかり闘病生活をしたりするなど、壮絶な経験をしています。
しかし、闘病生活が明けた後はレスリングに復帰し、全日本選抜で優勝するという強さを見せています。今回は渡利璃穏さんの経験や強さの秘訣に迫るべくインタビューをしました!
渡利璃穏さんのプロフィール
- 島根県松江市出身
- 至学館高校、至学館大学卒業
- アイシン・エィ・ダブリュ社(現 アイシン)で現役を続行
- 2016年リオデジャネイロ・オリンピックに75kg級で出場
- 2019年に現役を引退
- 現在はアイシン社(旧 アイシン・エィ・ダブリュ)に勤務
最初は好きではなかったレスリング。一つの勝利をきっかけに社会人まで続けることに。
ーーー最初に渡利さんがレスリングを始めたきっかけや経歴を教えてください。
レスリングを始めたのは小学1年生のときです。レスリングのことはほとんど知らなかったのですが、親に「マット運動ができるところがあるから行っておいで」と送り出されたのが始まりでした。
正直、小学生の頃はレスリングがあまり好きじゃなくて。どうやったらレスリングを辞められるかをいつも考えていました(笑)。
でも、小学5年生のときの試合で負けたのがすごく悔しかったんです。負けず嫌いな性格だったので「あと1年だけ頑張って、勝って終わりたい」と思うようになって、1年だけ本気で頑張りました。そしたら小学6年生の全国大会で、身長が大きくて体格が良いこともあって全国大会の重量級で2位になれました。
2位だったけど本当に嬉しくて「満足して辞められる!」と思っていたのですが、そうはいかず…(笑)。中学校でもレスリングを続けることになりました。
ーーー至学館高校にはどのような経緯で入学することになったのですか?
中学3年生のときに出場したクイーンズカップが大きなきっかけです。今まで勝てなかった強い選手がいたのですが、ミラクルで勝って優勝しました。この優勝によって年代別のアジア選手権に出場することが決まって。
アジア選手権後、栄監督が吉田沙保里さんを連れて島根県松江市の道場まで来てくださったんです。そこで「行きます」と返事して至学館高校への入学が決まりました。
その後は至学館高校・大学を卒業、アイシン・エィ・ダブリュ(現 アイシン)に入社してOGとして現役を続行し、2019年の12月末に引退しました。
3ヶ月で6kgの増量に挑戦。過酷な食生活を乗り越えオリンピック出場を果たす。
ーーー2015年までは63kg級に出場している一方で2016年は75kg級に出場していますが、どのような理由・きっかけで大きく階級変更したのですか?
75kg級がまだオリンピック枠を取っていなかったからです。当時、63kg級でオリンピックに出場できずメンタル的にも落ち込んでいました。そのとき、周りに「階級変えたら?」と提案されたんです。
でも、さすがに2階級上、かつ一番重い階級で背も高い相手に「勝てるわけがない」「いや、無理でしょ」と思っていました。このことを実家に帰ったときに母親に話したら「せっかくチャンスがあるんだったらやってみたら」と背中を押してもらったんです。
母親の言葉をきっかけに「悔いのないようにやろう」と決めて、増量する決意をしました。
ーーーどのくらいの期間でどのくらいの体重を増やしたのですか?
3ヶ月で6kgほど増量しましたね。75kg級に出場するには69kg以上である必要があったので、63kgから69kgまで増やしたという感じです。
ーーーどのような方法で増量したのですか?
ただ脂肪を付けても動けなくなって勝てないと思ったので、ご飯をしっかり食べて増やしました。あとはプロテインです。
一日の流れは、バナナや普通よりちょっと大きめのおにぎりを食べてから朝練に向かっていました。朝練後は幅20cm、高さ5cmくらいの器をご飯で埋め、上におかずをいっぱい載せて一皿食べ切るということをやっていました。多いときは2杯食べていましたね。
そして、午後練習前はおにぎりやバナナを食べ、午後練習後は朝と同じようなご飯を食べていました。あと、練習後はプロテインも飲んでいました。この食事を毎日繰り返します。
もう常に吐きそうで、横になって寝るのもしんどかったです。練習中は吐きそうになっている自分との戦いでした(笑)。
このように増量して、12月の天皇杯はギリギリの69.2kgで計量を通過しました。
ーーー過酷な増量を乗り越えて、天皇杯やオリンピックアジア予選を優勝されたときはどんな気持ちでしたか?
オリンピックが決まったときは本当に嬉しかったです。
アジア予選は人生で一番のピークなんじゃないかってくらい調子が良かったんです。強いと言われている選手に決勝戦で勝って優勝できたので、「オリンピックでもメダルを取れるのではないか」という希望も見えました。
オリンピック直前に病気を発見。オリンピック終了後は壮絶な闘病生活を経験した。
ーーーオリンピック直前に病気が見つかっていたことをいろんな記事で拝見しました。どんな気持ちでオリンピックまでの日々を過ごされていましたか?
オリンピックで勝ちたいという気持ちはあったのですが、いつその病気がひどくなるかわからないという不安もありました。周りからは「大丈夫だよ」と言ってもらえていたのですが、100%の保証はなく、いつ高熱が出て動けなくなるかわからないという状況だったので。
そんな不安が練習中によぎったり、ストレスからか急に視界が悪くなって前が見えなくなったりするほど、メンタルがすごく不安定だったのを覚えています。
オリンピックで負けた直後は「負けて悔しい」だけじゃなく、「もうレスリングをすることはないのかな」「この試合でレスリング人生が終わったのかな」という気持ちもありましたね。
ーーー闘病生活はどのようなものだったのでしょうか?
病名を確定させるために検査が必要だったのですが、その検査はただただ痛いという記憶があります。
治療が始まったら抗がん剤を打つことになるのですが、血管痛という副作用があるんです。それがすごい反応してしまうタイプで、通常20分ほどで終わるのが私の場合は痛すぎて3時間ほどかかっていました。
あとは、抗がん剤を打った2・3日後にご飯が全部美味しくなくなる時期が絶対に来て…。どの食べ物が合うか見つけるまで時間がかかるし、でも食べないとお腹空くし、自分の体力も落ちちゃうし…というのが本当に苦痛でした。
他にも、手に小さな水ぶくれがたくさんできて何かに触れるだけで痛くなったり、髪の毛が抜けたりなど副作用が起きて、常に気持ち悪さを感じていました。
闘病生活から復帰。半年後の全日本選抜で優勝を果たす。
ーーー壮絶な闘病生活ですね…。その後レスリングを復帰されていますが、復帰しようと思った理由やきっかけは何だったのですか?
一番は応援してくださる方がたくさんいたからです。会社や小学校などいろんなところから千羽鶴やメッセージをいただきました。その中には「復帰を待っているよ」と言ってくださる方もたくさんいました。
このような応援をいただいて「ここでやめたら絶対後悔する」と思ったんです。勝つことよりももう一度マットに上がることが大事だと思って復帰を決意しました。
ーーー最初は動くのも大変だったと思うのですが、試合に出られるまでどのように仕上げていったのですか?
最初は少しの距離を歩くだけでかかととアキレス腱が痛くて。走ることすら無理だったので、自転車を漕いだり、散歩したりすることから始めました。腕立ても10回すらできないくらい弱っていたので、膝を着いたところからたくさんの回数をやるようにしていました。
マットの外でトレーニングをやっていたのですが、「レスリングをやっているみんなは化け物だな」と思いながら楽しく取り組んでいました(笑)。
トレーニングをしていく中で少しずつ動けるようになってきて、打ち込みにも参加したり、相手の動きに対応してみたりと徐々にステップを進めていって、最終的にはスパーリングができるようになりました。
スパーリングができたので「とりあえず試合に出てみようかな」という気持ちで明治杯に出場することにしました。
ーーー出場しただけでもすごいのに、その明治杯で優勝されていますよね。
あれは本当にミラクルで「天が味方してくれたのかな」とも思っています。
あと、練習していなかったからこその強さもあったのかもしれません。試合前もすごくリラックスできてて、「勝たなきゃいけない」という気持ちよりも試合に出られるだけで幸せだったんです。
欲がなかったのが良かったのかもしれません。
身体の痛みから引退を決意。悔いや未練は一切なくスッキリ辞められた
ーーー2019年に引退されたとのことですが、引退を決めた理由は何だったのですか?
弱っていた部分の痛みがかなり出てきて、もう構えることも走ることもしんどくなったんです。多分、復帰するのが早かったんだと思います。練習も焦ってやった結果、痛みでまともに練習ができない期間が長く続いてしまって…。
「こんな状態で試合に出ても勝てないな」と思ったとき、レスリングを続けることへの熱意がプチっと切れた感じがしたんです。そこで引退を決意しました。
ーーー引退を決めたときはどのような気持ちでしたか?
もうスッキリ・サッパリでした。未練も何もなかったです。それほどやり切った感が強くありました。
今振り返れば、悔いを残して辞める方がたくさんいる中で、悔いなく終えられたのは本当に幸せなことだなと思います。
困難を乗り越えられたのは支えてくれる人たちがいたから。家族・会社のためにもレスリングで勝つ姿を見せたい。
ーーー大きな階級変更や闘病生活からの復帰などを経験されていますが、そこまでレスリングに没頭できた理由は何だったのでしょうか?
自分のためよりも「支えてくれる人たちのため」という気持ちが大きかったです。
特に家族からは長い間応援してもらいました。「チャンスがあるならやってみたら?」と言ってくれた母親の気持ちを考えると、「オリンピックに出てほしいんだろうな」と思って。だから増量することを決意できました。
病気のときも月1回くらい島根から愛知に来てサポートしてくれたんです。すごく大変だったと思うので「元気になってレスリングをしている姿を見せたい」と思っていました。
あとは会社の方々からもすごい支えてもらいました。負けた時は同じように悔しがってくれて、勝ったり、チャンスが出てきたりしたときには同じように喜んでくれたのがすごい嬉しかったんです。だから会社の方々のためにも頑張ろうという気持ちがありました。
レスリングに復帰して勝つのは普通の生活に戻るよりも難しいことです。でも支えてくれる方々の応援が力になって、レスリングに復帰して優勝もすることができました。
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