レスリング選手

【中村剛士】人生は捉え方次第。どんな出来事でも幸せは見つけられる。

キッズから大学までレスリングで成績を残し続けた中村剛士さん。しかし、自分より結果を出し続ける家族の存在や度重なる怪我などによって何度かどん底を味わった経験があります。

しかし、そんな経験を味わいながらもひたすら自分と向き合い、愛や感謝、人と人の繋がりの大切さなどに気が付くことができました。そして、現在は自身の体験を活かしたパーソナルトレーナーや講師、コーチングなどを通じて、人生の幸せを目指すための活動に取り組んでいます。

今回はそんな中村剛士さんのレスリング時代、引退後についてインタビューしました!

中村剛士さんのプロフィール

  • 埼玉県出身
  • 花咲徳栄高校・専修大学卒
  • 2017年全日本大学選手権優勝
  • 2020年引退
  • 現在はレスリング・ラグビー・MMA選手のトレーナー、総合格闘技ジムで指導者として活動している

臆病者だった幼少期。母親に怒られないためにわざと手を抜いて練習していた。

ーーーちびっ子の時からエリートっていうイメージがありますが、どんな幼少期を過ごしましたか?

中村剛士さんの幼少期
中村剛士さんの幼少期(右から2番目)

レスリングを始めたのは3歳です。近所に父親が運営していた格闘技ジムがあって、そこにレスリングを引退したばかりの山本美憂さんが引っ越してきて、兄貴(中村倫也さん = 元レスリング選手・現総合格闘家)とアーセン(山本アーセン = 総合格闘家)の3人で始めました。

レスリングは遊び感覚でやっていました。レスリングのことはよくわかっていなかったけど、小学校2年生で出場した全国大会でいきなり優勝したんです。

「あれっ。俺が優勝しちゃった」って思いました(笑)。そのとき印象的だったのが、母親が今まで見たことないくらい喜んでいたこと。そんな母親を見て「親の誇りになれた」って嬉しくなったのを覚えています。

ーーー小学校低学年の頃から順調に活躍していたんですね。

いや、小学校4年生の全国大会では1回戦で負けていて…。そのとき、母親にもう本当に意味わからないくらい怒られました。「もうレスリングやらなくていいよ」とか「レスリングはやめさせる」とか。

負けたことではなくに怒られたのではなく、レスリングをやっている自分そのものを否定された感じがして、それがあまりにも悲しかったです。当時は水泳もしていて「水泳の方が才能があるから水泳をやりなさい」と言われたこともあり、自分自身を見てもらえていないと強く感じました。

この負けで「弱いときに結果を残したら褒められて、結果を出しているときに負けたら怒られる」っていう考えが生まれたんです。だから「もうレスリングを真剣にやるのをやめよう」って思って。本当はちゃんとやっててもヘラヘラしたり、わざと点を取らせたりして、普通の子と逆に手を抜いているように見せるということをやり始めました。

ーーー「剛士は陽気な人」というイメージを持つ人が多いと思いますが、演じたことがきっかけだったんですね。

本当は臆病者なんですよ。1回得た地位を失うことの恐怖がレスリングをやる楽しさを上回るほどビビっていました。

その後は中学校へ進学して、週3くらいで花咲徳栄高校で練習をしていました。引き続きのびのびやっていたんだけど、全国大会で中2は3位、中3で優勝しちゃったんです。でも、そのときも母親が喜んでくれたので俺も嬉しかったし、兄貴も全国大会で優勝していたから「兄貴に追いついた」って感じで安心したのを覚えています。

あと、そこそこの練習で全中優勝したから「俺やばっ!」っても思いました(笑)。

高校での怪我をきっかけに意識が変革。しかし、チャンピオンになれなかったことで自信を喪失した。

ーーーその後、高校入学後もこれまでと同じような気持ちでレスリングをしていたのですか?

中村剛士さんの高校時代
インターハイ団体決勝で優勝を決めたシーン

同じような気持ちで高校に入学しました。そしたら、めちゃくちゃ怪我をするようになったんです。怪我だけじゃなくて、月1回38度を超える体調不良も起こすようになって。結論、高校3年間でレスリングができたのは1年間だけです。

最初はのびのびやっていたけど、怪我をしてから「このままじゃやばい。普通にやっていたら勝てない」って考えるようになったんです。そこから、トレーニングについて本で勉強したり、教えてもらったりして工夫するようになりました。

あと、同じ花咲徳栄で練習する仲間の影響も大きかったです。成績を残している人は皆一生懸命努力していて、練習量も多いです。その姿を見て「一生懸命取り組む方がかっこいいな」「強くなるならちゃんと練習しなきゃな」と思うようになりました。

こんな感じで意識が変わってからは全体練習の後に自分の練習をする習慣が身に付いたり、わからないことがあれば積極的に教わったりするようになりました。

ーーー高校ではインターハイや全国選抜で2位の成績を残していて、調子を取り戻してきたって感じですか?

良い結果だとは思っていません。

当時、中村家には「中村家は誇り高き民族だ」みたいな雰囲気があったんです。親父は昔からたくさんの事業をしていて、俺が生まれてからは経営状況が少しずつ悪くなってしまいましたが、中小企業で最高年商50億円に達成するなどの実績がある立派な起業家でした。

母親は高校卒業と同時に北海道から上京して踊り一つで生活してきて。そしてレスリングが強くて、他者からの人望が厚く、誰からも人気な兄貴がいる。

みんな強く生きてきた人たちだから、その中で落ちこぼれるわけにはいかないという気持ちを持っていました。だから、個人戦で優勝できなかったことで、自信を喪失したんです。

でも、逆を言えば「1年間しか練習しないでこの成績なら、大学行ったらとんでもないことになるだろ」という希望もありました。大学にはワクワクドキドキしながら進学しました。

大学入学後は怪我のオンパレード。それでも着実に成長するものの、ある怪我をきっかけに何もかもがどうでもよくなった。

ーーー大学でもたくさんの怪我をしましたよね…。

中村剛士さんの大学時代
大学時代の中村剛士さん

まずは、大学1年の春の新人戦で膝の靭帯断裂、秋の新人戦で肘の脱臼、大学2年のJOCで膝の外側靭帯断裂をしました。怪我をするたびに「また長期間を棒に振るんだ」という絶望感と、着実に成績を残していく同期に置いていかれている感じがありましたね。

でも、大学の監督にJISSを紹介してもらって、トップアスリートがたくさんいるような環境でリハビリをやっていました。レベルの高い人たちの中に結果が出てない俺がポンって入ったけど、「ここにいる人たちよりもやらないと上に行けない」と思ったから、誰よりもリハビリを追い込んでいました。

あとは、オフの日に食べるカレーやチームの仲間たちに救われていましたね。

ーーー怪我をしている状況でも、見えないところで誰よりも追い込んでいたんですね。

「自分からは逃げられないよ」って言い聞かせながらリハビリに取り組んでいました。

JOCの怪我から復帰した後、大学に入学して初めて約2ヶ月間1回も怪我なしで練習できたんです。その状態で全日本大学選手権に出場して優勝しました。2ヶ月間練習したことで自信もめちゃくちゃあって、しかも組み合わせも良くて。決勝は覚えていないほどゾーンに入ってて、気づいたらテクニカルフォールで勝っていました。

怪我で練習できない期間は、レスリングについて考える時間が増えるからレスリングがますます好きになったり、「トレーニングよりもレスリングがしたい!」という気持ちが溢れるたりするようになっていました。

その一方で、レスリングに対する想いとは反比例するかのように怪我が増えていくから「努力は報われない」って思っていました。でも、この優勝で初めて「努力って報われるんだ」って心から思って。人生で初めて嬉し泣きしたのを覚えています。

ーーーそこから調子を上げていったんですね。

いや、優勝してからは大きな怪我のオンパレードでした。

大学3年の夏に脛骨が3つに割れる骨折をしました。夏の練習でマットにあった汗の水溜りで足を滑らせたんです。その瞬間「もう逝った」と思いましたね…。

これまでは怪我をしてもなんとか気持ちを繋いでいたのですが、ここで初めて心が折れました。具体的に何が起こったかというと、すべてのことに無関心になったんです。レスリングも勉強も今後の人生も、何もかもがどうでもいい。生きているけど生きていない感覚になりました。ご飯の味もしないし、温泉に入っても喜びもない、ただ時間が淡々とすぎるような感じです。

どん底から救ってくれたのは”幸せ日記”。もう一度レスリングをやり切ることを決意した。

ーーーその無関心な状態からどのようにして立て直したんですか?

インタビュー中の中村剛士さん

無関心の状態から2週間ほど経って、急に「俺このままじゃ死ぬ」っていう危機を感じました。そこで思ったのが「まずレスリングとかはどうでも良いから、1回幸せになろう」ってことです。

もともと人生の目的が幸せになることだと考えていました。だから、こんな状況でレスリングとか言ってる場合じゃないなって思って。

そして、幸せになるために始めたのが幸せ日記です。毎日小さな幸せを思いつく限り書いて、ネガティブなこととそれが起こった原因や対策も書くようにしました。

幸せ日記を書き始めて2週間くらいで効果が見え始めて、3週間経つ頃には「もう1回行くぞ!」「レスリングだけは絶対にやり切る!」と、心に着火される状態にまでなりました。

ーーーいよいよ大学ラストの年になりますね。大学4年生はどのような1年間を過ごしましたか?

やっぱり怪我が続いて、結果を残せないまま終わってしまいました。これまで負けるわけがないと思っていた相手に負けたり、ラスト数十秒で逆転負けをするようになったり。絶望を感じることが多かったです。

一方で、結果は残せなかったけど、自分には負けませんでした。毎日少しずつ良い方向に変化しているのが実感できていたんです。だから、目標を変えて「2024年のパリオリンピックに出場するためにどうするか」ということを考え、行動するようになりました。

当時は「マジでオリンピックに行くのは俺だから見とけよ」と思いながら練習に励んでいましたね。

パリオリンピックを目指し始めた矢先でまさかのサプライズ。突然のレスリング引退。

ーーーここから切り替えて再出発という感じですね。

ここで大きなサプライズがあるんです。留年です。

留年を避けるために大学の教務課の方と一緒に授業を組んだんです。だから「留年するはずがない」と思っていたけど、意見のすれ違いが起きていたみたいで…。単位が足りていると勘違いして卒業ができない授業の参加の仕方をしちゃっていました。

就職先も決まっていたし、今後の4年間の計画も立てていて、計画に関してコーチからも許可をもらっていたので、「これからやるぞ!」って気持ちでした。留年を知った瞬間は忘れもしないです。頭が真っ白になって、真っ直ぐ立っていられないくらい目が回っていたのを覚えています。

ーーー試練が続きますね。留年を知ったあとはどんな選択をしたのですか?

レスリングを辞める決断をしました。

留年をしてでも会社の厚意でレスリングは続けられたかと思います。でも、自分が許せなかったんです。周りからの評価を軸に生きてきたこともあるけど、留年は恥だと思っていたから。レスリングは大好きだったがゆえに、留年した自分への罰としてレスリングを取り上げることにしたんです。

あとは、中村家の呪縛からの逃げです。自分の中で「中村家は誇り高き民族だ」という呪縛がずっとあって、落ちこぼれないためにも生活のほとんどをレスリングやトレーニング、治療、リハビリにあてていました。

大好きだった小麦粉や乳製品も完全に抜くという厳しい食事制限も徹底していました。お酒を飲んで酔っ払う感覚は大好きだったけど、「そんなものを飲む資格がない」と自分に言い聞かせて在学中はお酒も飲みませんでした。

こんな感じでレスリングが強くなるためだけの生活を送っていました。それでも怪我が絶えないから「もう無理だ」ってなったんですよね。

留年をした自分への罰と呪縛からの逃げの2つの理由からレスリングを辞めることにしました。

カレー屋とトレーナーでセカンドキャリアが開始。しかし、呪縛が解けず体調不良を引き起こす。

ーーーレスリング引退後はどのような活動をしていましたか?

インタビュー中の中村剛士さん

一人でカレー屋とトレーナーの事業を始めました。セカンドキャリアはなんとしてでも成功させようと必死でした。レスリングは目標を達成したわけではなく、中村家の呪縛から逃げただけだったので。この失敗を挽回するためにもひたすら勉強しました。

一人でやっていたのも他の人と差別化するためです。自分の価値を上げて「すごい」と思われたかっただけなんです。

ーーーレスリング引退後も中村家の呪縛と戦うことになるんですね。

お金・時間など、生活のすべてを自己投資に全ぶっ込みしました。だから、友達とも遊べない、外食もできない、自由に使うお金もない。

休むこともありませんでした。休もうと思っても「怪我してないからやれよ。このままじゃ同じ失敗を繰り返すぞ」って別の自分が言ってくるんです。だから、休むこともなく一人で淡々と仕事・勉強をしていました。

あと、一人で勉強して、一人で事業を起こして行動してたから、同業者の横の繋がりや同期、先輩、後輩、先生もいなくて引退してからの数年間はずっと孤独でした。この人と人の繋がりや喜怒哀楽の共有がないことこそが最もキツかったのではないかと今になって思います。

ーーー楽しそうにカレー屋をやっている裏側ではそんなことを考えていたんですね…。

こんな生活を続けていたら、あるときから体調がおかしくなったんです。夜眠れない、寝汗をかいて夜中に3回着替える、朝は4時には目が覚める、まったく疲れが取れない。この状態でカレー屋を営業していました。

体調を崩してから1ヶ月半が経ったとき、母親への不満も溜まっていて。実家暮らしでいろいろサポートしてもらっていたけど、いつもテレビに張り付いて兄貴を観ているんです。同じ番組を100回くらい繰り返し観て、検索欄は「中村倫也」「中村倫也」「中村倫也」…。

昔から「勝ったら褒められる」「負けたら怒られる」というわかりやすいアメとムチのスタイルなところがあって。親父は子育てに一切参加していなかったから「母親に好かれないとマズイ」という気持ちがどこかにあったんです。

だから今回はテレビでも活躍している兄貴をずっと見て、事業を始めたばかりで何も実績がない自分は応援されていないと思い込むようになっていました。

ーーーそのことはお母さんに伝えたんですか?

すべて話しました。今の精神状態のこと、兄貴と俺はどちらもそれぞれの夢を追っているのに応援の比重が兄貴の方が大きいことなど、小さい頃から今に至るまでに隠し続けた・溜め込み続けたリアルをぶつけ合いました。母親もショックを受けていたけど、最後にはお互い泣きながら話し合って。

そこで愛と感謝の気持ちが芽生えたんです。「愛されていたんだな」とか、「生かされていることに感謝だな」って。

この出来事から、なぜか愛や感謝について思い知らされるような出来事が次々と起こっていきました。栄養学を勉強していると自分達があまりにもすごい奇跡のうえで生まれていることを知ったり、今生きている環境は奇跡としか言えない神秘的な循環のもとで出来上がっていたりすることを知ったんです。

呪縛からの解放。愛と感謝の気持ちが芽生え、こじれた心が修復されていく。

ーーー愛と感謝の気持ちが芽生えたあと、どのような変化がありましたか?

インタビュー中の中村剛士さん

トレーナーの勉強や今後のキャリアをそっちのけにして、精神に関する勉強をし続けるようになりました。「すべてを受け入れる心を作るためには?」「強さ・弱さってなんだろう?」「等身大ってなんだろう?」「怒りってなんだろう?」などを、本を読んだり、自分に向き合って気づいたことをメモしたりして学びました。1日3万字書くこともありましたね。

このように精神に関する勉強を続けるうちに、レスリング時代やカレー屋時代にこじれた心が少しずつ修復されたんです。

一人では何もできないし何も嬉しくない、相手がいるから自分がどうあるべきかを考えられる。すべてのことは人と人の繋がりなんです。逆を言えば、人と人の繋がりが崩れたり、温もりを失ったりするのが怖いから恐怖心やネガティブな感情が生まれます。

ここで、「人生は捉え方」ということに気が付きました。同じ出来事でもポジティブな面を見るか、ネガティブな面を見るかで自分の幸せ・不幸が決まります。このことに気が付いて、これまでの呪縛が全部解けた気がしました。

ライバルから親友に。兄の夢が自分の夢になる。

ーーー気持ちの変化が現れてから、中村倫也さん(兄)との関係性は変わりましたか?

中村剛士さんと兄の中村倫也さん
中村剛士さん(右)と兄の中村倫也さん(左)

これまでは、兄貴はライバルでした。1回も目を背けずに戦い続けて、追い続けたけど1回も勝てなかった人です。だから、レスリング時代はトーナメントにライバルはいなくて、兄貴ただ一人と戦っていました。

でも、今は愛する兄弟・親友・仲間と考えています。兄貴の夢が俺の夢になっていて、兄貴の夢を叶えることが俺の夢です。

俺はずっと兄貴に向き合っていたけど、そもそも兄貴は自分だけと向き合っていたって気付いたんです。対戦相手や練習メニューじゃなくて、敵はいつも自分。キツイときでも相手が強いときでも自分には負けない。自分が強くなるためのことだけをやっているんです。そして、自分に勝った数だけ自信がついていて。だからあんなに強いんです。

これに気付いたときは「あれっ!あいつ俺じゃなくてずっと自分と向き合っているじゃん!俺は兄貴としか向き合っていなかったのに!」って思いましたけどね(笑)。

現在はトレーナーとして活動中。運動・栄養・心の3つの観点から人生の幸せを目指す。

ーーーこれまでの経験や気持ちの変化を通じて、現在はどのような活動に取り組んでいますか?

計6ヶ所のジムで柔術の技術を指導しています。あとは、レスリング・ラグビー・MMA選手のパーソナルトレーニングもおこなっています。

キッズの指導をすることもありますが、どんな人が相手でも「絶対その人の目線で指導する」ということを決めています。その人が今どんな感情で、何を考えているのかに目を向けることを意識して取り組んでいます。

そして、レスリング時代の自分と同じ思いをしてほしくないから、子供たちには「今この瞬間を真剣に取り組むからこそ楽しいんだよ」や「人の良いところを見つけよう」「自分と勝負しよう」と伝えるようにしています。

ーーー今後はどんなことに取り組んでいきたいですか?

今後は心と栄養に関することにも取り組みたいです。

人生を幸せにするのは「運動」「栄養」「心」の3つだと考えています。栄養に関しては子供がいる親に対して栄養指導をパッケージ化して提供したいです。心に関しては、これまで自分と向き合い続けてきた経験を活かして、心のケアを目的としたコーチングもやりたいと考えています。

さいごに

ーーー家族・怪我などさまざまな経験をしていると思いますが、そんなレスリング人生を通して学んだことはなんですか?

人と人の繋がりの大切さですね。仲間がいるから頑張れるし、自分がやるべきことが見つかります。そして、仲間の支えがあるから何かを成し遂げられるし、成果が出たときに嬉しくなります。世界に一人だけの状態で何か成果を出したときのことを想像しても悲しいだけです。

だから、みなさんにも自分のことを大切にしてくれている人のことを全力で愛してほしいなと思います。

あとは、物事の捉え方で人生は変わるということです。今思えば、俺のレスリング人生は幸せなことばかりでした。大好きなレスリングができて、立派な兄貴や指導者がいて。

でも、苦しかったことが思い出の大半を占めています。当時はネガティブなところしか見れていなかったんです。ポジティブなところに目を向ければすごい幸せだったのに。

人生とは自分が幸せに生きるためのものです。だから、「今この瞬間で起きていることをどう捉えたら自分が幸せになるか」という物事を幸せに捉える習慣を身に付けてほしいです。自分の人生の創造主は自分です。

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