レスリング現役時代に数々の成績を残し、現在ではレスリングウェアMAMOや温泉付きゲストハウス元湯の経営をしている半田守さん。
現在では地方に移住し、自分のやりたいことを仕事にされていますが、ここまで来るのに大きな決断や下積み時代などさまざまなことを経験されています。
今回は、そんな半田守さんの現在に至るまでの経緯や考え方、レスリングに対する想いなどをインタビューしました!
半田守さんのプロフィール
- 京都府京丹後市網野町出身
- 網野高校(現 丹後緑風高校)、専修大学卒業
- 2010年全日本学生選手権、2011年全日本大学選手権、デーブ・シュルツ記念国際大会優勝
- 2014年現役を引退
- 現在は岡山県西粟倉村を拠点にあわくら温泉元湯、レスリングウェア専門ブランドMAMOを運営
スター選手に囲まれてレスリングをスタート。厳しい指導を受けながら、中学・高校・大学それぞれで日本一を経験する。
ーーー最初に半田さんがレスリングを始めたきっかけやこれまでの経歴を教えてください。
レスリングは6歳のときに始めました。京都府京丹後市網野町出身で、そこに京都網野レスリング教室というところがあって。友達に「ちょっと見に来て見ない?」と誘われたのがきっかけです。
僕が入ったときから網野は強豪で、僕ら世代の人が聞いたらわかるようなスター達に囲まれて育ちました。
最初は遊び感覚でやっていたんですけど、だんだん勝負事が好きになって、他の同級生よりも真面目に取り組んでいた記憶がありますね。そして、小学5年生の全国大会で優勝しました。この優勝がきっかけで中学・高校でもレスリングを続けることになりました。
中学・高校では1回ずつ全国大会で優勝し、網野の先輩方が頑張られていたということと、佐藤満先生(専修大学レスリング部ヘッドコーチ、1988年ソウルオリンピック金メダリスト)に声をかけていただいたという理由から専修大学に進学しました。
大学では2年生でインカレ(全日本学生選手権)、3年生で内閣(全日本大学選手権)、4年生でデーブ・シュルツで優勝しました。そして、大学卒業後に国士舘大学大学院に通いながら2年間レスリングを続けて24歳のときに現役を引退したという感じです。
ーーー中学・高校では具体的にどのようなレスリング生活を送っていたのですか?
網野は中学校からめちゃくちゃ厳しくなるんですよ。基本は坊主です。中1から高校生と同じメニューになって、先生からの呼ばれ方も「まもちゃん」から「半田」に変わりました(笑)。
実家から通っていたんですけど、朝練は7時40分〜8時20分までの40分間です。40分間だけだけどめちゃくちゃしんどいんですよ。スタートから全速力なんです。メニューは中距離走とかウエイトトレーニングとかをやります。
午後練習は16時からで、終わるのは平気で20時とか21時とかです。怒られたときは22時になることもありましたね。
僕たちの代って先生にめちゃくちゃ怒られてるんですよ。というのも京都府に京都八幡高校というライバルがいたんです。京都八幡高校には全国優勝するくらいのメンバーがいて。網野高校は前々年が全国2位、前年が全国ベスト8まで行っているのに、僕たちはインターハイにすら出られませんでした。だから、厳しく指導してもらった記憶がありますね。
何が正解かはわからないですけど、中学・高校でめちゃくちゃ量をやったから、「やっぱり量をやらないと頭一つ抜けられない」という感覚が身につきました。それは後々の大学や社会人生活にも影響しています。
ーーー大学で輝かしい成績を残されていますが、大学卒業後はなぜ2年しか現役を続けなかったのですか?
目標がなかったからです。恥ずかしながら「オリンピックに行きたい」と思ったことが一度もありませんでした。勝負事は好きだったけど、大きな目標は掲げていなかったんです。
だから、同世代の世界で活躍したライバル達に勝てなかったんだと思います。当時は能力の差だと思っていたけど、今思えば目標がなかったから勝てなかったというのがわかります。
現役引退後、教員の道を絶って一般企業に就職。とにかく量をこなして営業成績トップにまで登り詰める。
ーーー現役引退後はどのような道を歩まれたんですか?
中学生くらいから網野高校の恩師である吉岡治先生が「教員として網野高校に帰ってきて、レスリング部の指導をしてほしい」と言ってくださっていて。体育教師の免許が必要ということで、大学卒業後の2年間は国士舘大学の大学院に通いながらレスリングを続けていたんです。当時はやりたいことも明確じゃなかったし、「僕が網野高校を強くするんだ」くらいの気持ちでいました。
でも、大学院の2年間は初めて自分自身と向き合い、すごく悩んだ時期でした。「本当に僕は教員をしたいんだろうか?」と。高校時代に漫才グランプリを開催したり、、ギターを弾いて人前で歌ったりするくらい、もともとは好奇心がめちゃくちゃ強いんです。
もちろん教員も素晴らしい仕事で指導者には頭が上がらないんですけど、これから指導者を何十年も続けるって考えると、「やっぱり自分で考えたことや、やりたいことができる環境を模索した方が良いのではないか?」という感情が湧いてきて。
この感情が強くなって、教育実習中に恩師に「すみません、僕は戻れないです。一般企業に就職して一回社会に出てみたいです。」と伝えたんです。そのときはめちゃくちゃ怒られました。僕のためにいろいろ動いてくださっていましたし、2年間待ってくださっていましたから。
僕が先生に意見をしたのは中学校1年生ぶりなんですよ。当時、夕方に普通に下校する子たちに憧れて、「僕、普通の学校生活を歩みたいです。レスリングをやめます。」と伝えたことがあるんです。そのときもめちゃくちゃ怒られて「こっちの方が普通だ!お前が続けると言うまで俺はここから一歩も動かん!」と言われて諦めました(笑)。
でも今回は人生を決める最後の決断だと思って。もう緊張でガクブルだったけど、しっかり向き合って感謝と謝罪を伝えました。ご迷惑をおかけした分、必ず大成するという気持ちを持って、株式会社サンワという一般企業に就職しました。
ーーー勇気が必要な決断ですね。その会社にはどのようにして就職したのですか?
自分でマイナビに登録して、「ここは面白そうだ」と思って応募して、面接とか筆記試験とかを受けて就職しました。筆記試験と面接をあわせて6次審査までありました。
他にも就職のコネはあったんです。たとえば、ソフトバンクにはNo.1採用というスポーツの成績で入社が決まる制度があって、それも受けていました。他にも受けていて3社くらいから内定をもらっていたんです。富士通にもソフトバンクのような採用試験があったんですけど、最終面接で遅刻して落ちました(笑)。
ーーー誰もが知るような大企業も受けていた中で、サンワを選んだ理由は何だったのでしょうか?
会社説明会のときに、当時68歳だった山川社長がスピーチをしてくださったんです。「みんな大企業に行くけど、うちみたいな中小企業に入った方が自分が与えられる影響が大きい。だから自分の成長にもなる。」って。
その社長はもともとバーで起業した人で、飲んだくれのサラリーマンを朝の4時くらいまで面倒を見ていたんです。でも、「俺はこれを続けて良いのか?」と思ってスポーツ用品店に業態を変えているんですよね。
そんな感じで、社長自身も自分が成長できることを常に選んでいるんです。当時、京セラの稲盛和夫さんが好きで本を読んでいたんですが、「言っていることが一緒だ」と思って、サンワを選びました。
ーーー他のインタビュー記事でその会社での営業成績が1位になったと拝見しました。どのようにして1位になれたのでしょうか?
そもそもちゃんと目標があったんです。最終面接が終わってから社長に「僕は社長になりたいんです。だからずっとこの会社にはいません。社長になるためにこの会社に入ります。」と、普通だったら採用したくなくなるようなことを伝えました。
それでもその山川社長は僕を取ってくれたんです。そのとき「この会社の中で結果を残さないと社会に出たときに通用しない。だから、まずはこの会社で成績を残しなさい。」と言われました。この言葉も受けて「3年間でこの会社で1番になる」という目標を立てました。
ーーー目標達成に向けて、当時はどのような1日を過ごしていたんですか?
まず会社から自転車で5分くらいで着くところに住んで、朝6時過ぎには出社していました。帰るのも遅かったです。
やっぱり誰よりも量をやらないとダメだっていう考え方が染み付いているから、会社員時代の3年間は誰よりも仕事をしていました。仕事量としてもその3年間が一番やっていましたね。
厳密に言うと会社には一般部門と課長の部門があって、3年目に一般部門で1位を取りました。課長は5人いたんですけど、一人だけどう頑張っても勝てない人がいたんです。僕が出した粗利が1億3000万円で一般部門では差をつけて1位になったけど、その人は2億近くの粗利を出していました。
この人に勝つことはできなかったけど、一旦区切って次のステップに行こうと思って退職しました。その後、岡山県西粟倉村に移住しました。
起業のタネを探しに西粟倉に移住。バイオマス事業から始まり、3年後にはゲストハウス元湯を経営することに。
ーーー退職後、西粟倉村へはなぜ移住しようと思ったのですか?
会社員になるときに「社長になりたい」とは言っていたんですけど、その3年間で「これで食える!」みたいな起業のタネは掴めていなかったんです。だから、次のステップとしてもう1個経験が必要だと思っていました。
そのとき、使われていないものを価値に換えるような世界に興味があったんです。というのも、前の会社ではアニメグッズやキーホルダーなどを数万個単位で作るんですけど、ものづくり業界では不良品が出ると全部破棄されちゃうんですよ。
そんな興味を持っていたとき、間伐材や曲がっている木材など、山で必要とされていない木材をエネルギーに換えるバイオマスという概念を知りました。そして、ちょうど西粟倉のバイオマスの求人が飛び込んできて、移住を決めました。
ーーー興味のある仕事がたまたま西粟倉にあったということですね。移住した当初は具体的にどのような仕事をやられていたんですか?
最初の3年間は地域おこし協力隊として薪工場で働きました。その薪工場は当時赤字だったので、どうやったら黒字になるかをテーマに取り組んでいました。
最初は自分が大量の薪を割って補填していたんですけど、「このままじゃダメだ。いつまでも状況が変わらない。」と思って仕組みを作るようになったんです。ずっといる社員の方にとやかく言われることもあったんですけど、なんとか3年間で黒字経営に立て直せました。この経営に近い経験も自分の中では大きいですね。
ーーー3年間の地域おこし協力隊を終えた後はどのような取り組みを始められたんですか?
バイオマス事業を3年間やって、「いよいよ独立しようかな」と思っていました。でも、そのときちょうどコロナの時期で、バイオマス事業も同じ会社で運営していた元湯というゲストハウスも赤字になっていて。代表も最後の方はメンタルをやられていました。そんな中、代表から「半田くん元湯をやってみないか?」と提案を受けたんです。
1日くらい考えたんですけど、なんかやれる自信があったんですよね。隣の部門だったんですけど、「もっと熱量を持ってやったらちゃんと成立するんじゃないか」という仮説もあって。そんな背景があり、事業譲渡という形で元湯を経営することになりました。
普段はそんなことやらないんですけど、元湯は自分の想いだけで始めちゃったので最初は苦戦しました。でも「誰もできなかったこと(元湯をビジネスとして成立させること)を俺はやる」という反骨精神もあり、3年で自分がオペレーションから抜けた状態でも持続的に黒字を作れる状態まで持っていくことができました。
移住と同時にスタートしたレスリングウェア事業「MAMO」。3年間で全国の大学シェアNo.1にまで成長。
ーーーレスリングウェア事業のMAMOもやられていると思うのですが、MAMOはいつから始めたのですか?
バイオマス事業と同時並行でやっていました。移住当時の地域おこし協力隊の手取りを計算すると12万5000円だったんです。「これはやばいな」という危機感があり、やっぱり自分で何かやらなきゃいけないと思って始めました。
会社員時代から次のステップに行くときは自分でも商品を作るというのが頭の中にあって。水着を作れる会社だったので、会社員時代から遊び感覚でバイソンズ(専修大学が母体のジュニアレスリングチーム)のシングレット(レスリングウェア)を作っていたんです。
でも、シングレットの営業をできるのは僕しかいないから、退職するときに「この事業を自分の事業として持ち出しても良いですか?」と山川社長に直談判したところ、快く承諾してくださって。それで、移住と同時にMAMOをスタートしました。
レスリングとものづくりという自分がやってきたことをミックスして、自分にしかできないことをやっているので、この仕事は気持ちもすごく入りますね。
ーーーMAMOは現在多くのレスラーに着用されていますが、ここまで成長するのにどのようなことをやられてきましたか?
現在全国の大学でシェアNo.1で、たくさんのレスラーに着ていただいています。もともとシェアNo.1という目標は掲げていたんですけど、ここまで成長できた一番の要因は目の前の仕事をめちゃくちゃ頑張ったことだと思います。
たとえば、どれだけ大口の注文をいただいてもお客様のイメージと違っていたら全部作り替えていました。当たり前ですけど、うちに関わってくれたお客様には損をさせずに、とにかく喜んでもらいたいので。
はじめの頃はけっこう腹の痛いこともやっていたので、赤字になることもありましたね。
ーーー選手のことを第一に考えていたのですね。MAMOとして今後どのようなことをやっていきたいと考えていますか?
まずは「”MAMO”のシングレットを着たい」と思ってくれる選手を増やしたいです。
MAMOはメーカーじゃなくてブランドであるべきだと思っています。シングレットを作っている方々の中で、実際にレスリングをバックボーンにしているところってうちしかいないと思います。だから、旗振り役としてレスリングを牽引していきたいです。
レスリングってめちゃくちゃ面白いじゃないですか。レスリングの試合自体が注目されるようになるためには、まずは認知を広げて、そして試合自体の希少性を高める必要があります。同じような考えを持ってアクションを起こしている人たちと一緒に組んだり、協賛を増やしていきます。
こういうことは他のブランドではできないことだと思うので、MAMOにしかできないことをガンガンやっていきたいですね。
今後やりたいことを一言で表すと「サッカー部よりモテる競技にする」です。これを言うとダサくなっちゃうんですけど(笑)。結構本気です。
本気になった選手は「本物」。本物に触れて自分自身も本物になる。
ーーー情熱を持ってMAMOのお仕事に取り組まれていますが、レスリングに対してどのような想いを根源に持っていますか?
めっちゃかっこいいと思ってます。選手が本気になったときゾーンに入っているのがわかるんですよ。カミソリのような状態で、そんな選手がとにかくかっこよくて。
そして、彼らには大きな目標があって人を巻き込むことができます。これは僕にはできなかったことです。
東京オリンピックに出場した高橋侑希選手、高谷惣亮選手、須﨑優衣選手はゾーンに入ることができる選手で、実際に針の穴を通すようなことをやってのけました。その3人がたまたまMAMOを選んでくれて。だから「全力で盛り上げないと」と思って、東京オリンピックの際にTシャツそれぞれ100枚ずつプレゼントしました。
こんな感じで、腹を痛めてでも本気の選手を世間に伝えるという仕事は僕の使命だと思っています。
ーーー今もレスリングに関する取り組みをされていますが、現役時代から現在まで一貫して持っている想いや信念はありますか?
「本物に触れる」っていうことは大切にしています。中途半端なことはしたくないですよね。
夢を実現する人っていうのはそもそも脳の作りが違ってて、基本的にみんな勘違いからスタートしているんですよ。本気で勘違いしないと「自分がオリンピックに行ける」なんて思わないはずですから。自分が現役時代に勝てなかったのはそこにあるなと分析しています。だからこそ、同じ失敗は繰り返したくありません。
本物に触れることで自分自身も本物に近づいている気がしていて。MAMOを通してレスリングの注目度を上げたい、サッカー部よりモテるようにしたいという目標に対しては本気でコミットできています。
僕以上にレスリングウェアを熱く作っている人はいないと思います。
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