オリンピックに出場する選手には、皆ドラマがあります。皆さんは小原日登美さんのオリンピック金メダルを獲得するまでのストーリーを知っていますでしょうか?
二度の予選敗退、引きこもり生活、引退と復帰、10kgの減量。これらはすべて壮絶なものだったと思います。
今回はそんな経験をされて、晴れてロンドンオリンピックで金メダルを獲得された小原日登美さんにオリンピックまでの道のりや現在のレスリングに対する想いなどをインタビューしました!
小原日登美さんのプロフィール
- 青森県八戸市出身
- 八戸工業大学第一高等学校・中京女子大学(現・至学館大学)卒業
- 自衛隊体育学校所属
- 現在は自衛隊体育学校レスリング班のコーチを勤める
自分の不器用さに苦労を覚えたレスリング初期。憧れの人を追いかけて遅咲きの全国制覇。
ーーー最初に小原さんの経歴を簡単に教えてください。
私は小学校3年生のときにレスリングを始めました。
高校卒業までは地元青森県でレスリングを続け、大学は中京女子大学(現至学館大学)に進学して、大学卒業後は自衛隊体育学校に入ったという流れになります。
ーーーありがとうございます。そもそもどのようなきっかけでレスリングを始められたんですか?
私には3歳下の弟がいるんですけど、弟がレスリングを始めたことがきっかけで私も一緒にやることになりました。
私が通っていたレスリングクラブはまだ設立して間もなくて、練習もマット運動や馬跳びなど、体育の授業みたいな感じだったんです。「レスリングをやりたい」という気持ちはまったくなかったんですけど、運動が楽しそうで私もクラブに入ることにしました。
そしたら、次の週からレスリングの練習が始まって(笑)。一瞬「あれ?」とは思ったけど、週に1回しか練習がなかったので続けてはいました。
ーーーよく聞くパターンですね(笑)。そこからレスリングを続けられると思うんですけど、小中高はどんな選手だったんですか?
小学校4年生のとき、テレビで初めて女子レスリングの世界選手権を観たんですよ。そのとき、山本美憂さんが優勝していたんですけど、その姿が格好良くて。
それまでは夢はなかったんですけど、「山本美憂さんみたいになりたい」という夢を初めて持ちました。
この夢を中学・高校も持ち続けてレスリングに取り組んだんですけど、中学校は1回も優勝できず。高校3年生で初めて優勝できたけど、不器用だったのでなかなか勝てませんでしたね。
ーーーちびっこ時代から活躍してると思いきや、割と遅咲きだったんですね。
かなり遅咲きだと思います。「右手を使え」と言われたら左手を使わなくなるし(笑)。
技を教わってもすぐに理解できず、マット運動も得意ではありませんでした。人よりもできないことが多かったので、恥ずかしいと思ったり、コンプレックスに感じたりすることはよくありましたね。
オリンピックを目指したのは栄監督に出会ってから。人生で一番練習した大学生活。
ーーーそのような状況から「オリンピックを目指したい」と思えるようになったターニングポイントのようなものはありましたか?
「オリンピックを目指したい」と思えたのは栄監督と出会ってからですね。
そもそも至学館大学に進学しようと思ってなかったんです。体育の先生になるという目標に切り替えていたので、体育学校に進学してレスリングはなんとなく続けられたらいいなと思っていました。
あと、頭のなかで「自分は世界チャンピオンにはなれないだろうな」という考えもあったんです。
そんな状況で、高校2年生のときにたまたま中京女子大学の体育館で合宿があり、それに参加しました。そのときに栄監督に初めて出会って、「うちに来ないか」や「お前は絶対に世界チャンピオンになれる」と何度も声をかけていただきました。
実はそのときには別の大学に進学することが決まっていたんです。でも、栄監督からのスカウトで「自分にも可能性があるんだ」と気付かされて、中京女子大学に進学してオリンピックを目指すようになりました。
ーーー中京女子大学進学後、栄監督のもとでの練習はどのようなものでしたか?
振り返ると、人生を通してもあのときが一番やったんじゃないかというくらい練習しましたね。もうレスリングのための生活になっていたので、「いかに練習を乗り切れるか」ばかりを考えていました。
夜の10時まで練習することもあったし、休みの日に呼び出されて練習をすることもありました。本当にキツかったけど、「この練習を乗り越えられれば世界選手権で優勝できる」と信じていたので、なんとか着いていくことができましたね。
あとは、やっぱりこれだけ練習しているので、試合のときは自信を持って挑むことができていました。
まあ、今だから言えることですけど、栄監督がいるときの練習がキツすぎたので、同級生5人で力を合わせて「どうやってマットからいなくするか」みたいな意地悪を考えていたときもありました(笑)。
初挑戦はアテネオリンピック。しかし吉田沙保里選手に敗退し一度競技から離れて引きこもり生活に。
ーーー最初の挑戦がアテネオリンピックだったと思うのですが、どのようなものだったのでしょうか?
当時手術したこともあって、体重が60kg近くありました。48kgまで減量するのは厳しかったし、妹が48kg級にエントリーしていて姉妹で争うのは嫌だったので55kg級に出場することにしました。
でも、予選の全日本選手権で吉田沙保里選手に負けちゃって。手術明けのなかでも「アテネオリンピックに出場する」という目標があったから頑張れたんですけど、「自分はオリンピックに出場できないんだ…。何を目標にしたら良いんだろう」という気持ちになって、マットから離れたんです。
ーーー目標を見失われていたんですね。その後実家に帰られたというお話を聞いたことがあるのですが、どのように過ごしていたのでしょうか?
そうですね。半年くらい競技から離れて実家に帰っていました。
世界選手権とかで勝てるようになってきて、「自分は絶対にオリンピックに行ける」と過信していたんだと思います。だから、実際にオリンピックに行けなかったことがショックで。あと、お客さんに自分が負ける姿を見られたくないっていうプライドもあったんだと思います。
予選で負けたことで目標を見失っちゃったので一度マットを離れて実家に帰ることにしました。
でも、実家にいるときも「こうしておけば勝てたんじゃないか?」など、結局レスリングのことを考えていたんです。
レスリングは好きです。ただ、振り返れば、自分が負ける姿をお客さんに見られたくないというプライドがあって、競技を離れたのかなと思います。
自衛隊体育学校との出会いでオリンピックに再挑戦。アテネの後悔は晴らすものの予選敗退で現役引退。
ーーーその後、北京オリンピックに向けて復帰されることになると思うのですが、どのようなきっかけで復帰しようと決意したのでしょうか?
また北京オリンピックを目指そうと思えたのは、自衛隊体育学校との出会いがきっかけです。
競技から離れて実家にいるとき、仕事をしながら自分が育ったレスリング教室でちびっ子の面倒を見ていたんです。そのレスリング教室が高校のマットを借りる形で運営していて。その高校生が自衛隊体育学校に合宿に行くとなって、私もついて行ったんです。
実は大学卒業するときに自衛隊体育学校からスカウトをいただいていました。そのときはお断りしたんですけど、実際に練習を見てみると「ここだったらもう一回オリンピックを目指せるんじゃないか」という気持ちになったんです。
当時の自衛隊体育学校は女子選手は少なかったんですけど、この出会いがあったからまたレスリングをやろうと思うことができましたね。
ーーー自衛隊体育学校との出会いがあったからこその復帰だったんですね。小原さんにとって北京オリンピックの予選はどのようなものでしたか?
正直、頭の片隅に「(吉田)沙保里には勝てなだろうな」という考えがあったと思います。もちろん、勝つために練習はしていました。ただ、すごい強かったから。
でも、アテネオリンピック予選を途中で投げ出してしまった分、今回はどんな結果でも最後まで挑戦するってことに意味を見出して頑張っていました。結局沙保里と試合する前に負けて、北京オリンピックの予選は終わっちゃったんですけど。
でも、途中で投げ出さなかったので「やり切った」という気持ちが大きかったですね。だから、そこで引退を決意することにしました。
ーーーでも、北京オリンピック予選後の世界選手権で優勝していますよね。当時は「またレスリングを続けよう」という気持ちにはならなかったのでしょうか?
北京オリンピック予選後にオリンピック非階級で世界選手権に出場することが決まっていて、完全にそこで引退すると決めていました。
「もう一回沙保里とやって終わりたい」という気持ちはやっぱりありました。ただ、当時は本当に「やり切った」という気持ちになったんです。だから引退を決意することができたんだと思います。
その後は妹のコーチになって、二人三脚で妹をオリンピックに連れて行くという気持ちでしたね。
妹の想いを背負ってロンドンオリンピックに挑戦することに。過酷な減量・プレッシャーを跳ね除けて悲願の金メダル。
ーーー一度コーチになられていたんですね。その後、ロンドンオリンピックに向けて復帰することになると思うのですが、どのようなきっかけがあったのでしょうか?
2009年の世界選手権で初めて妹のコーチとして帯同しました。もちろん優勝するという意気込みで臨んだんですけど、結局メダルも取れなかったんです。その世界選手権の夜、妹にこう言われました。
「やっぱり、これ以上強くなれない。日登美が復帰してオリンピックに行って。」
実は私のなかでも48kg級で挑戦してみたいという気持ちは心のどこかにあったんです。妹を勝たせたいという気持ちもあったけど、二人で話し合った結果、妹はその年の全日本選手権で引退し、私が復帰してロンドンオリンピックを目指すことになりました。
ーーー先ほど60kg近くあったとお聞きしましたが、減量はどのくらい過酷なものだったのでしょうか。
そのときも58kg近くあったので、減量はきつかったですね。
10kg近くの減量幅だったので、少しずつ体重を落としていくことにしました。これまでは「何食べても練習すれば強くなれるでしょ!」という考えで、ジャンクフードも全然食べていたけど、初めて食生活に真剣に向き合いました。
当時は体脂肪率も一桁だったと思います。チョコレートを一粒食べるのも「食べたいけどこれを食べたら体重が増える」と自分と戦っていました。
オリンピック前のアジア大会で負けたこともあって、「負けたらどうしよう」という不安もあったり、体重との戦いもあったり、あの時期は本当に精神的に疲れていましたね。
ーーー本当に厳しい毎日を送られていたんですね。そのような厳しい状況を乗り越えたれたり、そこで本気になれた理由は何なのでしょうか?
オリンピックは3回目の挑戦で、これが最後という気持ちが根本にあったからな気がします。
あと、オリンピックは自分だけの目標ではありません。妹や体育学校の夢でもあります。自分だけの夢じゃないからこそ頑張れたんだと思います。
辛いときに自分の気持ちを共有できる人が周りにいたのも大きいですね。もし一人だったら、抱え込んでしまってもう一回逃げ出していたんじゃないかなって思います。
ーーー実際にオリンピックに出場されていかがでしたか?
優勝した瞬間は、嬉しいというよりほっとしたって感じでした。責任を果たしたなって。
決勝戦は途中まで負けていて、試合中に「私ここで終わるんだ」って頭によぎったけれど、なんとか勝てて良かったです。
ーーーこれまでライバルだった吉田沙保里さんもロンドンオリンピックで金メダルを獲得されました。小原さんにとって吉田沙保里さんの存在はどのようなものだったのでしょうか?
沙保里がいなければ自分が出たかもしれないという場面があったのも事実です。ただ、沙保里がオリンピックに行って優勝するのは納得できるって感じでしたね。
そのくらい強さを認めていたし、むしろ応援していたという感じです。
ーーーロンドンオリンピック終了後に本当に引退されたと思うのですが、当時はどのような気持ちでしたか?
「やっと辞められるわ!」という気持ちでした(笑)。もう自分にも相手にも勝たなくて良いですからね。
今思えば、当時は本当に大きな重圧があったんだと思います。オリンピックは予選で勝たなければ出られないし、本番で勝たなければ優勝はできません。負けが絶対に許されない状況だったので「楽しい」という気持ちはあまりなく、「勝たなきゃだめだ」という重圧がのしかかっていました。
だから、オリンピックが終わった次の日は「もう勝たなくていいんだ。解放された!」という気持ちでした。
自身の挑戦を糧に指導者の道へ。指導のテーマは「目標に向かう過程に意味がある」。
ーーー相当な重圧を経験されていたんですね。このような経験は指導されているなかでどのようなところに活きていると感じるでしょうか?
勝つためにはものすごく練習しなければいけません。ただ、私の経験上、勝ち負け以上に目標を見失うことの方が辛いと思うんです。
私は今、自衛隊体育学校で指導をさせていただいていて、選手は皆オリンピックを目指しています。ただ、オリンピックに行って勝てるのは本当に一握りで、勝てない選手もいて当然です。
でも、勝てなかったら意味がないわけではなく、目標に向かっていく過程が、レスリングを辞めた後の人生にも必ず活きてくると思っています。人生は長いので。
私自身はもう選手としてオリンピックを目指すことはできません。ただ、コーチという立場で選手と一緒に目標を目指すというのは、本当に幸せだなって思います。
ーーー小原さんがいろんな経験をされてきたからこそそのような考えに至ったんですね。今苦しい思いを抱えているアスリートもいると思います。最後にそのような人にメッセージをお願いします。
上手くいかなかったり、落ち込んだりすることには原因があります。でも、ただ「きつい」や「もう嫌だ」という言葉に片付けてしまっている人もいると思うんです。
だから、そんなときは「なんでこうなったのだろう?」と客観的に自分を見て、一つずつ解決していっていただけたらなと思います。
あとは、周りの人に頼ってください。上手くいかないときほど「自分でなんとかしよう」って思っちゃうんですよね。まずは自分の気持ちを伝えることから始めて、どんどん周りに甘えても良いと思います。
そうやって自分の気持ちを整理して、目標に向かって頑張っていただけたらなと思います。
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