現役時代はローシングルを得意技とし、全日本選手権優勝・世界ジュニア選手権2位など華々しい成績を残した田中幸太郎さん。日本のトップ選手として小学生から社会人まで活躍し続けました。
そんな田中幸太郎さんは現在、神奈川県の葉山町に拠点を移し、「自然」と「子ども」をテーマにNPOで働いたり、ビーチレスリングクラブを立ち上げたりするなど、積極的に活動をされています。
今回は、田中幸太郎さんが現在の活動に至った背景や現役時代から大切にしている価値観・軸などをインタビューしました!
田中幸太郎さんのプロフィール
- 京都府出身
- 京都八幡高校・早稲田大学卒
- 大学卒業後は阪神酒販株式会社に所属し現役を続行
- 2012年全日本選抜選手権 優勝
- 現在は認定NPO法人オーシャンファミリーに在籍しながら、早稲田大学レスリング部コーチ、葉山ビーチレスリングクラブ代表として活動している
「柔道のため」から始まったレスリング。ローシングルを極めてオリンピック出場を目指す。
ーーーレスリングを始めたきっかけやこれまでの経歴を教えてください。
レスリングを始めたのは小学4年生のときです。
もともと年中から柔道をやっていました。でも、小学生の柔道は軽量級・中量級・重量級とざっくり階級が分けられていて、僕は軽量級の中でも小さい方だったからいいところまで行くけどなかなか勝ちきれなくて。
そんなとき、「レスリング教室がスタートしました」というチラシが入ってきたんです。ちょうど柔道の練習の日程と被っていなかったこともあり、「柔道の足しになればいいな」という考えでレスリングをスタートさせました。
柔道と違ってレスリングは階級が細かく分けられています。そして、柔道の経験も活かせられたので5年生の全国大会で3位、6年生では優勝できました。
このときはレスリングと柔道の両方を掛け持ちでやっていたんですけど、中学校からどちらかに絞らなきゃいけないということで、当時勝てていたレスリングを続けることにしました。
中学進学後は1年生で全中2位、2・3年で優勝し、高校はそのまま地元の京都八幡高校に進学しました。高校時代は特に2年生のときが調子良くて、JOC・インターハイ・国体のタイトルを全部取ることができましたね。
その後、当時チームとして強かったり、憧れとなる先輩がたくさんいたり、ジュニアからお世話になっている先生の出身大学であったりしたこともあって早稲田大学に進学しました。大学には割と自信を持って入ったんですけど、最初は階級が下の先輩にけちょんけちょんにされて…。入寮して最初の3ヶ月くらいは1点も取れないことがざらにありましたね。練習後に半泣きで帰ることもありました。
「このままじゃダメだ」と思ってスタイルを変えてみたり、当時の得意技を封印してみたり、試行錯誤しながら練習するようになったんです。その成果が出て、1年生のインカレで2位、2年生で優勝しました。
そして、2年生の世界ジュニアで2位になったんですけど、それが自分でもびっくりしたのと同時に「ここまでこれた」とすごい自信になって。「これはオリンピック狙えるんじゃないか」と思って、大学4年生のときに開催されるロンドン五輪を目指して頑張るようになりました。でも、全然ダメで…。
ロンドン五輪には出られなかったけど、オリンピックを控えている米満達弘さん(2012年ロンドン五輪66kg級金メダリスト)が出場しなかったこともあり、大学4年生の6月の明治杯で優勝できました。
その後、リオデジャネイロ五輪を目指して拠点を変えて練習したけど、オリンピックには出場できず、2016年に引退しました。
ーーー幸太郎さんと言えばローシングルというイメージがありましたが、いつから得意技になったんですか?
ローシングルを覚えたのは中学生の頃です。
小学生まではアンクルピックが得意だったんですけど、「それだけじゃ勝てなくなる」と先生に言われて。そこで教えてもらったのがジョン・スミスという選手です。ジョン・スミスは手足が長くて、僕も似たようなスタイルだったので参考にすることにしました。
そこからは毎日ローシングルばかりを練習していましたね。高校生の頃、昼休みに顧問の先生から全校放送で「⚪️年⚪️組の田中、図書室に来なさい」と呼び出されて、ジョン・スミスのビデオを観て先生と一緒に研究したこともありました(笑)。
ーーーリオデジャネイロ五輪前に専修大学のコーチもされていましたが、どのようなきっかけで拠点を移すことになったのでしょうか?
リオデジャネイロ五輪を目指すにあたって、早稲田の一個上の先輩で同じ階級の石田智嗣さんに勝たなきゃいけなかったんですけど、全然歯が立たず…。
「この選手を超えるには何か変えなきゃいけない」と思っていたとき、専修大学の佐藤満先生(1988年ソウル五輪金メダリスト・専修大学レスリング部ヘッドコーチ)に声をかけてもらったんです。
佐藤先生にはナショナルでもお世話になっていたうえに、「五輪を目指して現役に専念することは幸太郎にも学生にとってもプラスになるから」とありがたい言葉もいただいて、専修大学に環境を移すことにしました。
ーーー実際に専修大学で過ごしてみてどうでしたか?
キツかったですね(笑)。ハードトレーニングでした。
でも、一番求めていたことが「ベースアップ」。追い込むことだったんです。
コーチという立場で、学生がやっている中で自分だけ「できない・やらない」は許されないと思っていたので、頑張れる環境があったことはすごいありがたかったです。
ーーー現役時代は常にトップ選手として活躍されていましたが、その強さの秘訣はどこにあったと思いますか?
京都八幡の浅井先生のおかげだと思ってます。習い始めた当初から、目標が世界でした。「全中で優勝するのは通過点だ」「インターハイで優勝するのは通過点だ」「全日本で勝ってオリンピックに出場するんだ」とビジョンを掲げてもらって、その中で練習をやらせてもらっていたんです。
同じ練習メニューでも意識が違うと目指せる場所も違ってきます。先生が掲げたビジョンが僕の目標にもなって、その目標を達成するためのメニューをやらせてもらっていました。全ては浅井先生の世界を見据えた意識から始まっていました。
レスリング引退後は教育の道へ。「自然」と「子ども」をテーマに幼稚園やNPOでチャレンジを繰り返す。
ーーーレスリングを引退されてから7年ほど経っていますが、現在までどのようなことに取り組まれてきましたか?
両親が中学校の教員ということもあって「自分も教育関係に進むんだろうな」とは思っていました。だから大学では社会科の教員免許を取りましたが、学校教育以外の教育現場にも興味がありました。
現役の最後の方は「教育」というキーワードをもとにいろんな人に会いに行っていました。そこで横浜にある「かいじゅうの森ようちえん」というちょっと変わった幼稚園の園長に出会いました。
その後、幼稚園の見学に行かせてもらったんですけど、そこが「子どもたちが育つ環境として理想的で素晴らしい」と思ったんです。小さい子どもたちが自分よりも大きいリュックを背負っていて、冬でもビーチサンダルを履いているんですよ。雨でも晴れでも雪でも風でもずっと外にいて、めっちゃ元気でたくましくて。
かいじゅうの森ようちえんも他の幼稚園のように園舎はあったけど、ほぼ園舎にいないんです。海に行ったり、鎌倉の山を歩いたり、大きな公園まで歩いたりして。子どもたちが毎日大冒険をしている様ですごいたくましかったんです。「『子供が子供らしくのびのびと過ごせる環境、自然の中で五感のアンテナをフルに刺激すること』が大きなキーワードなのかも」と思って、最初の1年はボランティアのような形で通い、その後2年間は共同園長という役職をもらって働かせてもらうことになりました。
ーーー共同園長として、具体的にどのような仕事に取り組まれていたのですか?
基本的には現場での活動です。「現場でどんなことをするか」と「どのように安全管理をするか」の2つに集中していました。
かいじゅうの森ようちえんは「自然の中の五感教育」というテーマのもとで活動していたので、四季で移ろう自然環境をどう遊ぶか、遊びの中でどう自然への興味関心を引き出せるか、子供の自由な挑戦と安全管理のバランスなど、答えが無限にあるような大冒険のような日々を過ごしていました。
ーーーかいじゅうの森ようちえんには3年間携わられていたということですが、その後はどのようなことをされてきたのですか?
かいじゅうの森ようちえんの共同園長として毎日活動していく中で、「自然の中で活動すること」と「子どもに携わること」の2つをしたいと考えるようになったんです。
かいじゅうの森ようちえんで働いていた頃に、子どもたちを連れて葉山の海に行くことがあったんですけど、海は安全管理が難しいのでオーシャンファミリーというNPOに安全管理をお願いしていました。
そこからのご縁で「オーシャンファミリーに入らないか」と声をかけていただいたんです。かいじゅうの森ようちえんも大好きで毎日充実していたけど、葉山の大自然の中で体を動かして活動している子どもたちを見たときに「こっちでチャレンジしてみよう」と思って、オーシャンファミリーに移ることを決めました。
オーシャンファミリーでは、地域の子供達と海で泳いだり、潜ったり、シーカヤックに乗ったり、生き物を捕まえたりと毎日海で遊んでいます。冬の寒い時期は海岸で焚き火をしたり、真っ暗な山を走ることもあります。
ーーー「自然の中で活動する」という軸を持たれたという話がありましたが、どのようなきっかけでご自身の生活に自然が必要だと思ったのでしょうか?
ぼんやりと「自然が大切」と感じ始めたのは、現役時代からです。過酷な減量を繰り返し、身体と心、パフォーマンスをコントロールする中で「自然なのものを食べて体も心も作られている」という紛れもない事実を、そして不自然な食べ物がパフォーマンスを低下させていることを何度も体験していました。
今、この海岸で感じている生暖かい南風や少し曇った空からさす光、穏やかな波の音など自然が発信している多様なエネルギーもまた今の僕を形成しているはずなんです。
このように自然の作った刺激を受けて人類が進化してきたことを考えると、僕らの現代の生活は人工過多な気がしています。向かう先はロボットになりかねない。
自分自身の、またこれからの子供たちの心と体の成長を考えるとより意識的に自然とつながる機会を作ることが健全だと思うのです。
少し話は逸れますが、現役時代、相手の殺気を感じたことが一度だけありました。「命を取られる」ような感覚です。
今、日々海に潜っていると色んな生き物に出会います。タコ、ウツボ、サメ、どんなに小さな生き物であっても海の中で目が合うとあの「殺気」を思い出します。「これは勝てない。殺される。」と、ふと脳裏をよぎります。
この「死ぬかも…」という感覚は「自然」と「スポーツ」の現場では比較的体験しやすいと思っています。
「日本レスリングの父」で知られる八田一郎氏の八田イズムにも、強化を目的にした「ライオンとにらめっこ」が有名ですが、ここにも「自然」を生活に取り込むことのヒントが隠れているように感じています。
2023年4月に国内初のビーチレスリングクラブを設立。今後は小学生が参加できる大会の開催を目指す。
ーーー現在葉山でビーチレスリングクラブを立ち上げたと聞きました。ビーチレスリングはどのようなきっかけで始めたんですか?
もともと知り合いのママに「この辺でレスリングやらないんですか?」と言われていたんですけど、「最近全然やっていないから」とやらずにいました。でも、同じような言葉を何人かから言われるようになったんです。
よく考えたら、「ビーチで相撲すればビーチレスリングになるわ!」と思って。僕がやってきた「レスリング」と「自然」を融合することもできますし。
そして、今の会社から副業を認めてもらう形でお願いして、2023年4月から休みの日を使ってビーチレスリングをやっています。
ーーーまだ立ち上げたばかりかと思いますが、ビーチレスリングクラブでは今後どのようなことに取り組んでいきたいと考えていますか?
今、クラブには10人くらいいるんですけど、まずは子どもたちに自然の中で元気に育ってほしいと思っています。あとはここでの経験が人生の中で何かの自信につながれば、とも思っています。
取り組みとしては、大会を企画してみたいです。今、国内では小学生が参加できるビーチレスリングの大会はありません。でも、毎週練習をしていると格闘技の闘争心が芽生えてきて、強くなりたいと思う子も出てきています。練習によって撒いた種が実ってきているけど、試合がないから収穫できないというのが現状です。
先日、神奈川県レスリング協会主催でビーチレスリングの体験会を開催しました。他のチームの子と戦ってみて、子どもたちの満足度が高かったように感じられました。だから、次は大会を企画して、練習の成果を披露する場を作りたいと思っています。
現役時代からの価値観は「ニュートラル」。今後は自然に逆らわず挑戦的な日々を過ごしたい。
ーーー現役時代は日本のトップ選手として活躍されており、現在もレスリングに携わられていますが、現役時代から大事にしている価値観や軸はありますか?
「ニュートラル」ですかね。良いも悪いも、考え方しだいですよね。
高校生の時に祖母から「人間万事塞翁が馬」という言葉を教わりました。「人の幸不幸は転じ易く判断しにくい」といった意味です。
簡単なことではないですが、勝って奢らず、負けて腐らず、心はいつも穏やかに過ごしたいです(笑)。
ーーー最後に、幸太郎さんが今後目指していることややりたいことはありますか?
5年後・10年後僕が何者かであるかはわかりません。でも、できるだけ自然に近い場所で、自然の循環や摂理に逆らわない生活を心がけたいと思っています。
そんな生活の中で身にまとったエネルギーや考え方をもとに子育てや仕事、遊び、人付き合いなどをして、挑戦的で豊かな日々を過ごしたいと考えています。
田中幸太郎さんが携わるサービス・SNSアカウント
- 葉山ビーチレスリングクラブ Instagram
- 認定NPO法人 オーシャンファミリー
- かいじゅうの森ようちえん
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